心の教育の場としての森の学校
戦後70年を経た今日、社会の状況や子供たちの実態は急激な変化に直面している。いじめ、不登校、問題行動の頻発は、
その原因として子供たちの心の荒廃にあると考えられる。では、子供たちの心の荒廃を招いた原因は何にあるのか。
それは、家庭・学校・地域社会の三者にあると考えられる。これらが「心の教育」への努力を軽視してきたことが、
現在の状況を招いている。子供たちを取り巻く状況を見てみると、現在の物質的に豊かな生活は、人間が努力や苦労を
しなくても、安楽に生きてゆけるかのような錯覚を起こさせる。より根本的には物質の豊かさではなく、物質によって
物事が解決すると考え、安易に物質主義に流れてきた戦後日本人心のありようにあると考えた方が正解かもしれない。
モノがあるとか無いとかではなく、子供に対して過保護、過干渉であったり,しっかりした躾をしてないことが
最大の要因であり、そのことはいつまでも母親の胎内に在って、羊水に浸っているような保護された状態が、
いつまでも続くような気分にさせられる。そうした状態が長く続けば自立心は育たないだろう。すなわち無気力が
生じるのである。また自分さえ安楽であれば、他の人がどうであろうとかまわないという無関心に、そして共同体の
中で生まれ、育ち、生活しているのに、自分の責任を果たそうとしない無責任に、美しいものや気高いものにに接して
心が動かない無感動になってしまう。これから求められる心の教育は、人間の精神の育成にかかわる教育であり、
それはいかに生きるべきかを基本にした意志力の教育である。その意志力は、人間としていかに生きるべきかという
価値に裏付けされて、より良く生きる力となる。
心の教育を考えた場合次の三つが考えられる。
① 人としてして生きる力そのものを培うこと ② 人と共に生きる力をつける ③ より良く生きる力をつける
① 人として生きる力そのものを培う
心を病んでいる子供たちには、心を開かせたり、心のケアーをしたり、さらに心を鍛錬するためのトレーニングも必要である。
それにはカウンセリングを始めとする様々な心理療法が大きな役割を果たすであろう。 自分という存在をまざまざと感じ、
自分をいとおしく思い、自分には自分なりの力があると信じ、自分を尊ぶというといった力を培っていくことが大事である。
このように自分自身を真剣に見つめる心を育てることが、豊かな心を育てることになる。生きる力を培うことは、逞しさを
培うことである。「生きている」そのことが何にもまして価値があることだと思えるようになった時、生きとし生けるものに
対する畏敬の念を持つ事になってくる。
② 人と共に生きようとする力を身に着ける必要がある。
人間として生きてゆくには一人で生きることは出来ない。自らを取り囲んでくれる人々に対して思いやる心があってこそ、
みんなと共に円滑に生きることができるのである。自分から他者に向けられた思いやりの心は、他者からの思いやりの心を
導き出し、和やかな生活が営まれるのがあり、それは親子から始まり、兄弟、友達、先生へと広がってゆく中で身につく
ものである。
③ より良く生きる力を身につけること。
よりよくというのは価値のあるものを求めるということである。いわゆる道徳的価値観を子どもたちがいかに身に着け、自らのものとして
発展させられるか中心としながら心の教育を進めてゆく。
心の教育の場として次に掲げる学習を進めてゆく
① 自由学習 ② 体験学習 ③ 価値学習
① 自由学習
アメリカと日本の二つの国で、それぞれの教育を受けた者に、日米の教育について尋ねたところ、アメリカの高校教育は「一人一人の能力・個性を
引き出す」ことが最大級の評価を得たのに対して、日本のそれは、「大学入試を目的とする」であった。これを見ると日本とアメリカの高校教育の
違いがはっきり分かる。ひとことで言えば日本の教育は大学入試のための教育であり、アメリカでは、能力や個性を伸ばすこと、独創性や創造的
思考を重視している点に明らかな相違が見られる。日本の親達は、自分の子どもに対して、勉強しないから成績が良くならないとこぼす。この嘆き
の背後には、「やればできる」という理論が前提として隠れている。真に努力すれば成功する。成功しないのは、努力が足りないからだ、という
理論は日本中に行き渡っている。だがアメリカの親達はそうは考えてない。生徒の能力(IQ)があって、それはなんともしがたいと思っている。
この前提に立つと「やればできる」とは言えなくなる。アメリカではたとえ学校の成績が悪くても、子どもたちひとりひとりにいろいろな可能性が
秘められていると考えられており、個人個人はそれぞれ異なった才能や能力をもつユニークな存在と考えられている。なぜ改革が必要なのか。
日本の産業社会は高度経済成長によって大量生産、大量販売という成熟期に入った。新しく台頭してきたのは、消費社会であり情報化社会である。
この社会構造の変化は、個人の評価の基準が、学習から能力へ移行している。新しい消費社会は、同じことを繰り返し、同じ物を作るという
「同一化」の原理ではなく、他とどのように違っているか、どのような違いが新しいものを生み出すか、魅力を持つかという「情報化」と
「差異性」の原理を生んだ。大企業も大量生産、大量販売から脱皮せねばならなくなり、第二次産業社会の基盤は、そっくり発展途上国に
移管させるようになった。大企業を中心とした終身雇用、年功序列、家族主義が揺らいできた。年功序列も能力主義にとってかわられつつある。
この社会の変化は教育に影響を与えつつある。消費社会は同時に起きたハイテク社会、情報化社会と合体して人並みの能力ではなく、新しい
ことを発見する能力を求めるようになってきた。これまでと違った差異化能力が求められるようになってきたのである。勉強に興味、関心、
やる気を持たせることは教えることのスタートだろう。やる気は物事に熱中する気持ちの状態である。熱中するには物事に興味と関心を持つ
必要がある。何か変わったこと、面白いことは、これまでになかった新しい「モノ」、差異欲求の中心は、これまでと違っていることであり、
その差異は「なぜ」と疑問を持つことから生まれる。アメリカの教師たちは生徒達との生活の中で、これまでと違った視点を発見させる。
そしてそれは何故かという関心を持たせようとしている。作文の好きな子は、物事に深い洞察力を持ち、感覚も鋭いし、表現も上手である。
けれども感情が豊かでなくても、一つ一つ問題を丹念に積み上げて行くことや、正確に一つとて細かい条件も欠落させない、冷静沈着で
理解力の優れた子もいる。好き嫌いや興味、関心はこの個性と強い結びつきを持っている。その好きな事、興味、関心を伸ばしてやることが、
個性の尊重教育であり,やる気を出させる教育である。生徒が好きで選んだことを、教師は上手にリードしてやるのが良いだろう。興味と
関心に応じた教育システムは「選択」というシステムであり、「理解に応じた教育」である。つまりは「習熟度別教育」である。
③ 体験学習
高度経済成長以前の貧しさは、それ自体教育的であった。家の手伝いをしながら我慢の心が育っていったからである。またそのころの子供たちは
野山の自然を遊ぶ中で、豊かな感性を育んでいったのである。しかし、物質的に豊かな社会と少子化の進む現在はそれがないのである。
このことから「心の教育」に新しい工夫が求められていると考える。自然を知らないもろい子供たちをどうするのか?日常生活から自然が
遠ざかり、また生活に必要な手や体などの技術が低下している今、体験の学習を多く取り入れ事が必要になってくる。心の教育になぜ「体験」
なのかは、それに基く感動が強烈であり,体で学んだことはいつまでも忘れないからである。では、なぜ今なのかと問われたら、自然を知ら
ない子供たちが増えていること、他者と深く関わろうとしない体験不足の子供たちが、課題を抱えていることが少なくないからである。
他者の意見を見聞きして学ぶ間接体験も、知的発達を中心に人間を豊かにするものであるが、現代の子供たちは,借り物体験である間接体験の
多さに対して、直接体験が少なすぎる。遊びを見ても機械相手や情報を楽しむのが主で、これでは自己意識も対人感情も育たない。組んず
ほぐれつ、ぶつかったり、離れたりする中で、人間らしい心を通わせ合う事が出来る。五感を通して触れ合うことにより、相手への理解は
一層深まるのである。教室を出て自然の中で野外活動を体験すると、その体験には二つの意味がある。一つにはいろいろな人と関わり、他の
一つは山川草木など自然との関わりである。そこでは新しい人との出会いが待っている。友達の良さや新しい自分を発見することもあるだろう。
一緒にに食事を作り、一緒に山に登って汗をかいてみることから、友達のありがたさを、同時にみんなで作ったカレーを食べながら、嫌いな
人参も食べられる自分の意外な面を発見することもあるだろう。人間が本来持っている生物エネルギーの発散を共に行ったり、生活リズムを
共有することにより、人間的な心の交流が深まり共感する心が育ってくる。人が人との関わりの中で、自己尊重の気持ちや感性を育てようと
するとき,自然の中での体験学習は、非常に効果的なものだと考えられる。また、こういった活動を通じて、子供は生活能力を身に着けてゆく。
「友達と仲良く過ごせる」「家を離れて一人で過ごせる」「親に依存しないで一人で過ごせる」それからテントを友達と一緒に張れる能力が
身につくというのも自信になってくる。まさに感動体験である。
価値教育
今日、価値の多様化の中で、個性尊重のもとで、学校の教師がある特定の価値を子供たちに教えることが許されるだろうかと問われた時、答えは
否だろう。多くの教師は自分が特定の価値を注入といった偏った教育に携わっているとは考えない。しかし教師は価値の教育と無縁ではありえない。
そう見えるとするなら、その教師の抱く価値がその社会の中で、あまりに当然のものとして捉えられているからである。逆に言えば、教師の
抱く価値が改めて問われるのは、社会が多様な価値をもって葛藤的である状況のもとにあるときである。例えば、「女らしくあれ」という徳目が
昔であれば受け入れられても、今日のように「どうして…」という疑問が出される時代には、多くの教師が常識的に受け入れてきた徳目も再検討
の対象になる。多くの教師が特定の価値を子供たちに伝えているという自己像を否定するのが多いのは、戦後の日本の学校教育が価値の教育を
避けてきたことと無関係ではない。戦前の学校教育において、修身が極端に重視されたため、戦後の民主化の中で、教育勅語と修身はタブー視
された。価値の教育の内容が問題にされることなく、価値の教育そのものが忌避されることになった。その後、55年体制の左右の対立の中で
多くの教師が立場を鮮明にすることはなくなった。そのうち対立というより混迷を深め、方向性を失い、無秩序という方が当てはまる状況に
陥ったと言える。価値の教育を何をよりどころにするかが明らかでない中で、子供たちの指導に当たる教師自身が方向性を失い、多様性と
無秩序の中さまよっているのが現状である。個性尊重の時代といわれながら、依然として日本人は自立する事、自分なりの価値観を持つ事が
苦手である。当然それに伴って生じてくる個人の責任という発想も十分には育っていない。今の子供達にもそれと同じ点が見られる。集団
からの呪縛を否定して、個を主張する子供たちが増えているのは確かだが、いざ「責任」を問われる段になると、途端に「みんながしていた」
と集団の論理で守ろうとする。ベネディクトは、日本社会の道徳の在り方を、他者の嘲笑を恐れ、外面的な強制に基づいて善行をなす「恥」
の文化と表現し、内面化され、他者の知らない非行にまで罪の意識が及ぶ西欧の「罪」の文化と対比させた。キリスト教個人主義の西欧では、
唯一絶対の神に対する信仰と畏れが、個人を自律させ、また自立させる。その結果自己責任を自覚し、自己の決断で行動するので自由が生じる。
これが個人主義である。日本は大筋においてこの個人主義を導入し、日本国憲法成立以後、それが本格化してきて今日に至っている。学校教育は
それをもっとも先鋭に行ってきたと言える。しかしながら、個人主義の確立はほとんど成功せず、学校教育が大量に生み出してきたのは、自分
の権利ばかりを主張する利己主義であって、西欧のギリシャ思想やキリスト教を基盤としていることを理解せずに個人主義というシステムだけ
を取り入れ、その精神的基盤を忘れていた。西欧の思想において最も大切なものは、神に対する畏れである。だから自立し、禁欲的となり、
利己心を抑制してきたのである。日本並びに韓国、中国という地域、すなわち東北アジアは儒教文化圏である。その内容は、霊魂を呼びおろし、
祖先の霊と出会う祖霊祭祀を柱とする。この祖霊祭祀を行うものは子孫である。そこでは子は親の残した遺体であり、その霊を発現する身体で
あるとし、生命の連続を重視するのである。するとその生命の連続を表現する場として、家庭や家族が大事にされ家族主義となる。儒教の家族
主義が他の宗教の家族主義と異なるの点は、家族を壊しはならないものと神聖視することである。いわばキリスト教社会における神の
地位に、儒教社会では家族の神「祖霊」があると言っていい。つまりキリスト教徒が神を畏れ、神が利己を抑制するのと同じく、
儒教は祖霊を畏れ、祖霊が利己を抑制してきたのである。この70年、日本において家族主義が解体していった結果、大量の利己
主義者が生まれてきた原因はここにある。東北アジアに個人という観念はない。家族の中の個体という観念である。これが儒教的
家族主義である。われわれ日本人は本質的に儒教的である。日本人に宗教はないというが、日本人は儒者である。なぜなら心の深層
にあるシャーマニズム、祖先崇拝、生命の連続への願い等々が一貫して生きているからである。であるから、日本人の心に響く儒教的
な在り方、とりわけ生命の連続の重視をしっかり教えてゆくべきだろう。